ゆるやか100%

日々のあれこれをゆるやかに楽しくつづるブログ

2016年03月







坂爪圭吾さんが配信していたツイキャスを視聴していました。コメントを見ていた坂爪さんが、途中で「ゆるやか100%さん」と言っていたのを見て、「おお、名前を呼んでくれた!」と、ラジオに投稿したお便りを読まれたときのような感動を覚えました。(笑)

坂爪さんが放送の中でおっしゃっていた、
・女性から褒められている坂爪さんに対し、それを見ていた男性が嫉妬して坂爪さんに批判的なことをいう

・「お遍路に行きたいけど、今は子供がいるから無理。老後に行きたい」といった女性に対し、「本当に行く気があるのかどうかが疑わしい。また、子どもがいるから無理ということに対し、子供が『自分はお荷物だ』と思ってしまう可能性がある。『今は子育てがしたい』という言い方ではだめなのか?」といったこと

が印象に残りました。

今回は失敗談的(?)な、「批判的なことを言われることに対しての坂爪さんの反応」という内容でした。坂爪さんはブログの中でもときどき「坂爪さんを嫌っている人」のことを書いています。

女性から褒められている坂爪さんに対し、それを見ていた男性が嫉妬して坂爪さんに批判的なことをいう


個人的には「坂爪さんを嫌っている人」というのは、組織で働いていたりする人なんだろうなと思います。いわゆる一般的なサラリーマンというか。また、上記の「女性に褒められる」ところに反応していることから、独身の人が多いのかなとも思います(笑)

他ブログで「批判コメントを繰り返す人(数回に分けられていましたが、文体が同じなので同一人物)」を見かけましたが、その人は「管理人がほかのコメント者から褒められたり感謝されたりしていると批判コメントをする」という形態でした。

坂爪さんへの批判にも、同じ力学が働いているのだろうなと思います。「それはおかしい」と言っているのは、発言者が言っていることそのものにではなく、「(他者からの評価を得ていることが)おかしい」という気持ちが根底にあるのでしょう。もう少し別のところから見ると、「(俺のほうがあいつより立派なのに、あいつだけ褒められるのは)おかしい」という気持ちもあると推測します。

この推測が合っているとすると、坂爪さんの行動や考え方そのものは批判されるものではないでしょう。実際に批判されて、それが法に触れていることだったら批判者より先に警察なりが来るでしょうし。

この場合の、「女性から褒められている坂爪さんに対し、それを見ていた男性が嫉妬して坂爪さんに批判的なことをいう」に対しての解決法は、「批判者本人に女性をあてがう」かなぁと思いました(笑) 冗談も半分ですが、本気も半分です。もしかしたら批判者の方にすでにパートナーはいらっしゃるのかもしれませんが、褒めてくれる女性がいるならわざわざ坂爪さんを批判している選択肢はないでしょうし。

あとは……もし、坂爪さんを褒めた女性の方に余裕があれば、坂爪さんを批判する人を見かけたらその人のことも褒めておく、というのが対処法の1つかなと思います。(笑)

女性「坂爪さんはすごいですね!」坂爪「ありがとうございます」男性批判者「いやいや、坂爪さんのこういうところはおかしいでしょ」←こういうパターンになったら、女性が「でも批判者さんもこういうところがすごいですよね!」と言う……という対処ができればいいのかなぁと思います。

何か犬や猫の多頭飼いの飼い主さんの話(褒めるときは一匹だけ褒めるのではなく、両方に声をかける)のようにもなっていますが、ストレングスファインダーの調和性の視点(?)から対処法を考えてみました(笑)

「お遍路に行きたいけど、今は子供がいるから無理。老後に行きたい」といった女性に対し、「本当に行く気があるのかどうかが疑わしい。また、子どもがいるから無理ということに対し、子供が『自分はお荷物だ』と思ってしまう可能性がある。『今は子育てがしたい』という言い方ではだめなのか?」といったこと



これに対しては、自分も同じことを思っていました。この例だったら、「自分がいなくなれば、お母さんはお遍路に行けるんだ」という解釈をしただろうなと思います。

坂爪さんが「本当に行くつもりではないのでは?」ということより強調していた、「『今は子育てがしたい』という言い方のほうが適切」というのは鋭い視点を感じました。それで救われる子供は何人いるんだろう、と希望を持てる思いがしました。

「子供がいるから無理」という言い回しはよく使われることと思います。子どもがいるからやりたいことは我慢しなければいけない、というのも状況としては起こりうることが多々あるでしょう。ですが、坂爪さんが言ったような「言い回し」は工夫していってほしいと自分も思います。かつて、「自分がいなくなれば親は苦労をしなくて済む」と思った子供の一人として、です。

決してお遍路に行くことを責めているわけではありません。行きたいなら行ってほしいと思います。そして、私は行ったほうが子供や家族のためにもなると思うんですよ。子どもを連れて一緒に行ってもいいと思います。それだけの思い出を作るほうが、家族の歴史に残るし確実にハッピーだと思うのです。

「普通はこうだよね」という枠の中で考えると、やはり出てこない考えがたくさんあると思います。坂爪さんが思っていることは「普通」の枠組みを超えた鋭い部分を見落とさずにいられる、(言い方としてはよくないかもしれませんが)優秀なツールであると思います。

「こういう見方があるんだ!」という、まったく別の視点からの意見は、ときに反発される場合もあるでしょう。ですが、坂爪さんの見方を知ることで自分が見落としている部分を知ることもできると思うんですよね。ときにそれは「傷つく」場合もあるかもしれませんが、「気持ちの循環」は確実に起こっています。


ちなみに記事の最初のほうに張った『嫌われる勇気』を基にした私のツイートに坂爪さんがコメントをしなかったことに対してほっとしています。「腹から言っていないと入ってこない」とおっしゃっていましたが、このツイートはどちらかというと「頭から発した」ものです。文面が長かったために読みにくくて入らなかったのか、「腹からの意見じゃないので入らなかった」のか、証明はできないですが、「注目されなくてよかった」と思いました。ほかのコメントも飛ばしたものがありましたし、まぎれてよかったと思います。





ゲーム(真・三國無双Online Z)やっていたら明らかに世界観と似合っていない、アフロにド○ルドのような格好をしたプレイヤーを発見しました……(笑)

ゲーム


↑こんな感じです(笑)

どうやってそこまでカスタマイズしたんだろう…(笑)と驚きましたw PCのスペック的な問題でしょうが、プレイ中にプログラム自体が落ちてしまうこちらとしては、まず安定した動作環境というレベルの話です。ゲーム機でやっているんだろうなぁ…。

他には動物の姿をしたプレイヤーもいますね。虎とか。あークリアできない……。。。ニコニコでのプレイ動画もコメントが少ないということは、あまりゲーム人口がいないのかなぁ。

去年の記事ですが、若年層の死因のトップは「自殺」という記事がありました。
若年層の自殺がG7でトップ。日本の若者はなぜ死を選ぶ?

自分もふと、「あぁ、死んじゃっていいよなぁ」と思うことがあります。生きていてもなぁ……と思う気持ちがない日がないといっても過言ではありません。そういう気持ちが起こったとき、少しだけ死にたい気持ちから目をそらしてゆっくりと回復を待ち、落ち着きを取り戻すことで、どうにか今まで生きているほうを選び続けてこれています。

phaさんが「冬とカモメとフィッシュマンズ」の中で亡くなった友人のことを書いていらっしゃいます。若年層ど真ん中の年齢の方がなくなってしまっているのを見るのはやるせない気持ちになりますね……。

勝手な推測にすぎませんが、統計上分類される「15~39歳」の若年層の中で、感覚が鋭敏で繊細で、ごまかしがきかない人ほど「生きづらさ」を抱えているように思います。

よく死にたい気持ちが沸き上がる自分が、そういう感覚の持ち主かどうかはわかりませんが、「あ、この人は今こう思っている」というのが、矢が刺さるように理解できるときがあり、そういうときは「きっとこういうのはわからないほうが幸せなんじゃないか」と思います。

もちろん勝手な憶測で、本当に当人がそう思っているのかどうか、照らし合わせてみることはできないのですが、見た瞬間に一瞬で、言語を介さずに脳が理解できてしまうときがあります。日常の些細な場面でのことですし、その状況ではあまり重要でない事柄だったりしますが、それでも確信を持って「こうだ」とわかるときは「得した」と思うより「見たくなかったなぁ」と思うことのほうが多いような気がします。

「矢が刺さるように理解できる感覚」のときに、「見たくなかったなぁ」と思うほかに、「なぜほかの人と同じように、こういうことをどうでもいいこととして問題視しないようにできないんだろう」と思います。こういう気持ちのことを「疎外感」というのでしょう。そういうとき、自分は違っている(違っている→異質→仲間に入れない)の図が自動的にできてしまいます。

反対に、ほかの人なら当たり前に理解できることが理解できないときがあります。「そんなこと常識でしょう?」というレベルのことをミスったり……。これも、先にあげた「わかってしまう」こととはまったく反対のきっかけで、「疎外感」を発生させます。

わかっても、わからなくても疎外感があるんですよね。自分の些細な例ではありますが、こういうことの積み重ねで「居場所がない」につながっていき、やがて「自死」という結果になってしまうパターンはありそうだと感じます。

日常が疎外感や居場所のなさにあふれていて、しかも安心できる場所がない……この状態が生から死へと人を追いやっている。感覚を真正面から受け止める、鋭敏な人から「死」という選択をしてしまうのでしょう。

自分はあまり無責任に「そんなこと言わないでちょっと生きようぜ」というふうに簡単に言っていまうことは、ちょっとためらってしまいます。

死にたい人の生活費を見ることができるわけでもないし、生きたからってまた疎外感と居場所のなさの繰り返しかもしれません。天秤にかけることではないかもしれませんが、「生きていてつらい」のほうが死の瞬間の苦痛より明らかに大きければ、死を選んでも誰も責めないのでは、と思っている部分もあります。

毎日毎瞬間に訪れる「死にたい」「疎外感がある」などの気持ちと、文字通り死ぬまで一緒にいることが「生きる」ということなのでしょう。そして、その気持ちに耐えられずに、誰かが今日死を選んでしまったのなら、死ななかった自分はそれだけで偉い、というふうに考えます。

これは単純に、「弱いものから死んでいくから、生き残っているだけで勝者」的な考えではありません。死を選んでしまった人が弱かったはずはないのです。ただ、「繰り越し」が下手だったのだと自分は思います。

「死にたい」の気持ちをきちんと片づけてきっちりと清算したら、「死にたい気持ちと一緒に死ぬこと」が多くの人に選ばれてきた清算の方法といえます。そうではなく、「死にたい」という気持ちは「繰越す」のです。

死にたい→気分転換をする、死にたい→よけておく、死にたい→いったん寝る、……などのように、死にたい気持ちを「繰越す」ことで今日1日を選んでいける方法もあると思うのです。死にたい気持ちはなくならないけど、ちょっとだけ、部屋のゴミを見ないことと同じように、目はそらしておく。

自分は結構、こういう感じで「生きる」を選んできているな、と感じます。もちろん、事故やらでいつ死ぬかはわかりませんけれども、清算するのではなく繰り越しで「死」を選ばない方法もあるのです。




ニートを揶揄するのに「明日からではなく今やれ」ということが言われたりしますが、少なくとも自分は死にたい気持ちに関しては「今ではなく明日やろう、きっといつだってできるから。そのうち、そのうち……」という対応でよいと思います。そして、死を先延ばしにしてきた結果、いつの間にか高齢者といわれる年齢になり、寿命での死が目の前にきていた……というほうが「理想」だと思います。

生きているだけで殊勲賞、というと安っぽいかもしれません。「明日やろう」という態度もビジネスの場では褒められるものではないでしょう。ですが、人間が生きるとき、そういう態度をとる対象も存在しています。

フラっとわいてくる「死にたい気持ち」を消すのではなく、目をそらしながら消さなくてもいいと知る。ただ、今日一日だけ実行は後回しにしてみる。そうやって一日を終えて「生きて」いたら、それだけでいいんだ、と感じます。

今日は車で長距離移動する機会がありました。しばらく走ってから気が付いたのが、「あ、気分悪い。座ってられない」ということでした……。。

走り始めてからしばらくは「うーん、運転してもらっているのに自分だけ寝るのも申し訳ないな……」と思ったのですが、結局、同乗者に断って後部座席に横にならせてもらいました。

座っていられない、立っていられないということがよくあります。貧血というか、「お腹に荷重がかかってつらい」というのが正直なところです。一度「気分が悪い」の状態になってしまうと、しっかり休むまで回復できないのです。回復するには何をするかというと、薬を飲んだり何かを食べたりということではなく、「横になって寝る」が最良の対処法です。

実際に睡眠状態にならなくてもいいのです。(疲れがひどいときは睡眠状態になるときもあります)横になるだけでお腹の圧迫感が薄れて楽になります。疲れてしまったときは呼吸も浅いのですが、横になるとしっかり吸うことができます。

横になった瞬間に呼吸が再開できる、という感じです。長時間椅子に座るのは、自分の場合至難の業です。座面と背面が90度の椅子に何時間も座り続けることは敬遠しています。
座面と背面90度のイス


リクライニング機能付きの椅子に優先的に座りたい……というのが正直なところです。
リクライニング椅子の角度


車に長時間座るのは久しぶりだったので酔ったのかもしれませんが、吐き気がするというほどではなかったし……。。

そういえば、子どもの頃から長時間(1時間を越えたら、私の場合は長時間です)車に乗っていると必ず後部座席で横になっていたなぁ……と思い出しました。子どもの頃から車の振動が苦手だったのかもしれません。。でも、睡眠状態になってしまうと車の揺れは心地いいものになるんですよね。座面と背面が90度の椅子の通りに座っているのがキツイ、というだけであって……。

とりあえず長時間車に乗るとなると、私の場合はまず後部座席で横になれるかどうかを優先します。でないと体がもたない……!!必然的に助手席は乗らない選択になります。助手席に座ったとしてもシートを倒して毛布でも掛けられるようにさせてもらえばだいぶ楽です。(シートベルトの意味がない^^;)

後部座席では靴を脱いで、体の左か右を下にして寝ると楽になります。(急ブレーキがかかったときに座面から落っこちそうになることもしばしばありますw)仰向けだと膝を立てて寝て、体の上に上着か毛布を掛けて、まぶしくないように・体が寒くないようにしています。
正面から見たとき


助手席でこれをやると、他の車からの視線も気になるので(笑)できれば後部座席に寝たいですね。
助手席で寝るのは恥ずかしい


行儀が悪いと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、残念ながらそうしないと気分が悪くて仕方がないのです……合理的配慮ととらえていただける方とだけ車に乗りたい……(今まで後部座席で横になっているのをとがめられたことはないのですけどもね(笑) 親しい間柄の人と乗っているからかもしれませんが、会社の偉い人が運転してもらう車に同乗する、というシチュエーションでは難しいでしょうね……。。)

今日のまとめ:長時間の車移動ではなるべく後部座席で横になりたい!

車にクッションや毛布を入れておくと良いですね。。








手作り石けん素地で石けんを作りましたを書いてから、作ったものがどんなものなのかを書いていなかったので書こうと思います。作り方は以前の記事をご参照くださいませ~(。・ω・)ノ゙

形は悪いが使うのに問題なし!


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自分だけで使うので形は気にしていません! ゴツゴツしたジャガイモのようになりました(笑) 写真にも大きさを書いていますが、だいたい横10センチ、縦7センチくらいの大きさで何個か作っています。ほとんど使ってしまいましたが、まだ残っているものがあったので使い切ってしまう前に写真は載せておこうと思い、記事を書いています。

数滴のアロマオイルを混ぜ込んでいるので使うたびにいい香りがします。部屋の隅で乾かしているのですが、乾かしている間に香りが全部飛んでしまうというようなことはなく、通常売っている石けんと同じように、使うたびに香りがするようになっています。

ちなみになぜ乾かしているのかというと、粉末状の石けんを固形にするのに少し水を加えて1個にまとめるのですが、そのときに使った水を蒸発させるために乾かしています。

お風呂でもまったく問題なく使えています! もともと無添加せっけんですし、加えたものは香りづけのアロマオイルだけです。こねるときに使う水も水道水です。こねるときに力が足りなかったせいか(?)使っている途中で半分に割れてしまうことがありますが、割れてしまったものはネットに入れてハンドソープとして使います。

水を少し加えてこねて固める手間がありますが、好みの香りを作れたり、大きさも加減ができます。こだわっていけば好きな形にしたりもできるので、ぜひ作ってみてくださいね。



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