話しかけやすい人と思われている様子です


自分のことを「話かけやすそうな人」だとはまったく思っていません。むしろ「用もないのに話しかけないでくれよ……」と思っているタイプです。

ですが周囲の人、特に電車に乗っている人や飲食店で近くの席に座った人などからすると、「話しかけても平気そうな人」に見えているようです。今日は昼どきの少し混みあった飲食店で、先に座っていた人から「そこどうぞ」と空いている席を示して言われました。

以前などは電車に乗っていて行き先を聞かれたり、「ここ○○駅でいいんですよね?」とか言われたことがありました。

とっさに反応ができないので、「あっ…ハイ」としどろもどろにしか返せないのですが、自分に話しかけてくる方々はあまり自分の態度が良くない(というか、そっけない)ことを気にしてはいない様子です。話かけてくる人は大方の場合、年配の方が多いので、「若い人間は多少愛想がなくてもしょうがないよな」くらいの感覚でいらっしゃるのかもしれません。

幸いにも長い話をしようという方に当たったことはなく、2言3言で終わってしまう程度であることに、非常に安心感を覚えます(笑)。

20歳前ころは今と性格が全然違っていて、バス停で待っていたら近くに座ったおじさん(これも年配の60代ほどと思われる人)に急に話しかけられて、「○○までいくの?」から始まった会話から数分間、季節の行事のことや当たり障りのない世間話をして、おじさんが立ち去るときにバスの時刻表をもらった経験があります。

年配の(ガラの悪いほうの)人のルール


ブロガーのヨッセンスさんが、「店員のおっさんが無礼にタメ口で話しかけてくる理由を考察」という、とても秀逸な記事を書いていらっしゃいます。

この現象に自分の考察を付け加えると、「特に現在の50歳以上の年代の方々は、我々の世代とはコミュニケーションのルールがまったく違う」ということ、「繊細で譲り合う我々の年代のコミュニケーションが、年配の方々にはそもそも存在していないこと」、あとは「なれなれしく接して方言丸出し、ぶっきらぼうな態度で接することが年配の人々にとっては『仲良し・親密性』を測るモノサシになっていること」などが考えられます。

少なくとも、自分の住んでいる地域では、「方言で、お祭りの屋台のテキ屋さんのように(相手に拒絶される可能性はまったく考慮に入れず)日常生活で話すこと」が親密性を表すモノサシの土台になっていますし、それに反応しなかったり、ヨッセンスさんの記事で書かれているように(我々の世代のルールの正しさに沿って)丁寧な対応で接しようものなら、「愛想が悪い」という評価を下されてしまうような解釈の上で、年配の人たちのコミュニケーションは進んでいるな、と感じます。

ヨッセンスさんがおっしゃっていることは年配の人の「特に性質が下層の場合」の話かもしれません。自分も(過去には平気で接していたとはいえ)、聴覚過敏を自覚している現在では、普段の会話も不必要な大声でしゃべる方とは、あまり接したくはないです…。

コミュ障はまず、ルールの把握から始めないとならない


自分みたいな「一見大人しそう」なタイプは「ぶっきらぼうな態度で接しても反撃しそうにないし、安全そう」と解釈されているから、話しかけられるのかもしれません。(まぁ、今のところぶっきらぼうな態度だったことは非常にまれです。今日なども「こっちの席どうぞー」と、至ってまじめな様子で声をかけてもらいました)

また、たまたまかもしれませんが、今日の「話しかけられる」という体験から、「あれ?もしかして街中を普通に歩いてたとして、何か気になったり気がついたり、疑問に思ったりしたときに、近くに立っている人に聞いてもいいのか?」と感じました。

当たり前のことかもしれませんが、コミュ障の自分にとっては、まず最初には思いうかばない選択肢です。疑問に思ったら、まずスマホで調べるか、その場を職業として管理する人(お店なら店員さん、病院なら受け付けの方など)に聞く。

それから最後の最後でどうしてもわからなかったら、の場合に「道行く人に聞く」という順番でした。通行人や、たまたまその場に一緒にいるだけの人(同じお店の中にいる、自分以外の他のお客さんなど)に尋ねたり声をかけるということは、優先順位の中では最下位のまま、今までやってきたわけですから……。

道行く通行人に声をかけられない。これがコミュ障なんだなと思います。結構、見まわしてみると、無関係の人(バスを待っている最中など)に、皆さん声をかけたりしてるんですよね……。自分ができていないだけのようです。

仕事や勉強の場において、「まず調べる、そしてわからなかったら聞く」というルールが主になっている場所でやってきた経験のほうが長いので、「わからなかったらまず聞く」のカルチャー(思考回路)ってどうにも馴染みが悪いのですよね…。

自分自身にとって、コミュニケーションとは「まず、ルールの把握からすることが先」というものになっています。しかもチュートリアルなしで、完全にルールを把握できていないまま、決勝戦に出なくてはなりません。

コミュニケーションのルールはサッカーのルールやhtml記述の仕方のように、全世界共通であればいいなぁ、と感じます。