「自立」の定義




社会活動家、湯浅誠氏のブログにとても素敵なことが書いてありました。
NHK視点論点で「自立」について話す

自分はけっこう(シビアで、まるでナチスドイツのごとくに)経済的な自立、衣食住の自立、社会手続きや買い物の自立ができて一人前、という思考を持っていました。ですので、それができない人にはものすごく厳しい目を向けていたこともあります。「その程度できないのか」と。

ですが、湯浅氏のブログには「すべて自分一人でできるようになることが、真の自立ではない」という定義が書かれています。

エレベーターがダメなら階段、階段もダメなら避難ハシゴと、つまり依存先のたくさんある人が、特定の依存先に強く依存することがなくなり、そこに拠って立つこと、それに支配される、自らを委ねる必要がなくなる。だから「自立とは依存なのだ」と、彼は言います。より正確には「自立とは依存先の分散なのだ」と言うわけです。


この熊谷晋一郎氏の考え方には、「経済的な自立、衣食住の自立、社会手続きや買い物の自立ができて一人前」ということを「自立」と定義づけることを、疑う視点をもたらしてくれます。

成育歴からインストールされた「自立」観


「経済的な自立、衣食住の自立、社会手続きや買い物の自立ができて一人前」というのも、長年自分の中にあった思考です。そうしていけば真に「手間のかからない」上等な人間ができあがるでしょう。子育てはそこを目指して行われますよね。「何でも自分(一人だけで)できるようになりなさい」と。

確かに発達障害もなく、「健常」で、教育も受け、大人の言うことを良く聞くような、そういう脳の作りを持った人であれば経済的にも日常生活的にも、まったく人の手を借りなくて済むようになれるかもしれません。ですが、そこを目指すと、到達しなかった際に非常な不利益が発生することになります。周囲からは殺人を犯したかのごとく責められるでしょう。「なんでこんなこともできないんだ」と。

「すべてのことが全部、誰の力も借りないでできる」というのは、確かに(支配者側からすると)ラクでこの上ないことです。子育てをしている人の子どもたちすべてが、次の瞬間から炊事も洗濯も掃除もできて、勉強も誰にも頼らずできるようになったら素晴らしいことですよね。面倒を見なくて済みます。きっと、そうなってほしくて多数の方々は「何でも自分一人でできるようになりなさい」というのでしょう。

ですが、ここを目指すことはエラーが発生した場合に即処分ができる場合です。それこそ、同じものを大量に作る工場のような工程を辿る仕組みの中でだけ通用するものです。初歩的な論ですが、「人間は機械の部品ではない」わけです。

「誰の手もわずらわせなくて済むようになる」部品を作るなら、「何でも一人でできるようになりなさい」を目指す気持ちはわかります。ですが、実際はそうならないことのほうが多いといえます。湯浅氏のブログの最後に書かれているように、

「おれは自分の稼ぎで暮らしている」と胸を張っている世のおじさまたちの中にも、自分で食事を用意したり、自分の洗濯物を自分で洗えない人たちがいることに思い至ります。この方たちは経済的には自立しているかもしれませんが、日常生活自立は果たせていない。この方たちは自立していると言えるのだろうか、という疑問もわいてきます。


と、一般に「自立している」と言われる人々でさえ、このザマなわけです。であれば、「何でも一人でできるようになる」ことを目指し、そこを「自立」としている定義は変えていく必要があります。

あなたたち、それで本当に「自立してる」っていえるんですか?


「自立」の新定義は、「これ、お願い!」と簡単に言えて、「OK!」と快く受け入れられるようになることだと考えます。

ツイッターでも引用しましたが、「これ、お願い」を言えない、言ってはいけないという思考が親から、または社会から自分たちにはインストールされています。「いばや通信」の「マッチ売りの少女を殺したのは誰か。ー 自分をオープンなものにしている限り人間は絶対に死なない。」では、「この物語の重要なポイントは「少女には厳しい父親がいて、マッチをすべて売らなければ帰宅することが許されなかった」という点にあると私は思っている。」と述べられています。

我々(特に、俗にアダルトチルドレンと呼ばれる人々)は厳しい父親のもとで育てられ、そもそも「助けを求めてはいけない」というところまで、「何でも一人でできるようになりなさい」という自立洗脳で発想を狭められてきているわけです。

「助けを求めるな(何でも一人でできるようになりなさい)」というのは誰が言ったのか? それは「『おれは自分の稼ぎで暮らしている』と胸を張っている世のおじさまたち」であり、「自分で食事を用意したり、自分の洗濯物を自分で洗えない人たち」なんですよね。

なぜ助けを求めてはいけないのか? 「俺の洗濯物を洗ってくれる人手を横取りするな」ということですよね。弱者が助けを求めては、一般に権力を行使する側にいる立場の人が享受する恩恵を横取りされると心配しているから、ということもできそうです。であれば、「何でも一人でできるようになりなさい」は、むしろ権力を行使する側に人々に言ったほうが適切です。

いいことをしたら、ポイントでもいいので評価する仕組みがあるといいかも


依存先を増やしていく過程の対策として、親切にしたら確実に評価されるとか、ポイントがつくなどの数値化できる仕組みを導入してもいいと思います(笑)。

フェイスブックの「いいね!」を現実世界に導入するようなもので、誰かを手助けしたら「いいね!」が30は必ず付くとかにすると、「こんなこと価値があるの?」と思えてしまい、本当は大事なはずなのに当たり前のこととして見過ごされている(そして、当たり前だから無償と扱われている)「人に親切にすること」を、数値化して可視化できるようにしたら、たとえポイント稼ぎだったとしても「ポイントがつくなら仕方ないな」と感じて、人を手助けしようとする人が増えるかもしれません(笑)

親切にすることへのリターンがないことが、「助けよう」を阻害しているのかもしれません。もちろん誰もが無償だったとしても誰かに手を差し伸べられるようになったほうがいいとは思いますが、そこへ至る過渡期の対策として「誰かに親切にしたらオトクなポイントあげますよ」制にしたら、「これ、お願い!」「OK!」の関係を作りやすくなっていけるようになるかもしれないな、と考えます。