ゆるやか100%

日々のあれこれをゆるやかに楽しくつづるブログ

カテゴリ: 思い出話

現・パナソニックは昔、ナショナルという名前だったことを
皆さん覚えているでしょうか?😄

検索すると、2008年の記事が出てきました

今日、片づけをしていたところ、
ナショナルのロゴがついているものを発見したので
記念に載せておきます!

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ちゃんと「National」のロゴがあります!😄

たぶん100円ショップなどで買って、
ずっと使っていました。
普通に現役です!

別に、壊れたわけではないですからね~😄

おそらくこのまま使っていても問題ないのでしょうが、
最近の製品は
コンセントの差し込み部分に
絶縁加工がしてあるものが多いので、

パナソニックがナショナルだった頃に買ったくらい
古いものでもあるし😅

安全面を考えて、交換することにしました。

絶縁加工はなしです。
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メルカリなどで
「National」ロゴの製品を欲しい人がいたら、
売れるのかな~?🤔

とも思いましたが、
出品の手間などを考えると
忙しい中でもあるので、
断念しました。😅

なので、記念の写真は載せておきます!

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使えはしますが、処分しました。😌

National製品、今までお疲れ様でした😉




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家族と話をしていたとき、「なんだかなぁ……」と感じる話が出ました。知り合いというほどでもないのですが、近場で自殺した方がいたそうです……。😞

仕事がうまくいってなかった……ということらしいのですが、たぶん、よくあることではあるとおもうのですが、なにも死を選択しなくてもな……と、感じました。

すでに亡くなってしまってからでは遅いのですが、何かやれたことあったのかなぁ……という気持ちになりました。でも、話をする機会もない人でしたし(私からすると)、話をしたとしても自分のことを正直に話せたかどうかは疑問です。。。私の状態を否定される可能性も、多分に想像できます。。。😔

そういう距離の方ではありますが、最後は自ら死を選んだという顛末は、なにもそうしなくても……という気持ちになります。。

ほかにもっと取れる方法あったんじゃないかな……とか、実家に帰るとかできなかったのかな……とか。。。



文字通り、「自分を殺す」の、選択肢の前に、こういう「自分を殺す」の積み重ねもあったのかもなぁ…と、想像します。じゃなきゃ、最終的な「自分で命を絶つ」まで、行かないんじゃないかな。。。

自分で命を絶つ前に、ありのままで、自分らしく、生きようとしてみたのかなぁ……。他人軸だったんじゃないかなぁ……というふうにも、感じます……。

自分が自分らしく生きる、それができていれば、満点としましょう。。💮 そして、ご冥福をお祈りします……。

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【保存版3】前者後者って?(世界観・コミュニケーション編)

私の感覚が特殊なのかと思っていたこともありましたが、前者・後者の話や、そのほかの情報に触れることによって、「あぁ、別に間違いじゃなかったのか」と感じることがありました。

その一つが、「一緒の車に乗りたくない人がいる」というものです。

空間の共有は、後者にとっては「自分の世界の共有」


「・何より大事にしている自分の世界へ、招待したりフリーパスを与えます」

冒頭に引用したむかえさんの記事に、こういうふうに書いてあります。

私の場合、これが当てはまる・顕著に出るのが、「人と車に一緒に乗るときに、イヤじゃないかどうか」という感覚が、これです。

昔、車を持っていたとき、仕事でも使っていたのですが、その車に自分以外の人が乗るのがイヤでした。

職場の人が乗るのがイヤだ、と感じていましたねぇ。。。とにかく、気を許していない人が、自分が大切にしている車の中に入ってくるのがイヤでした。

気を許してないとはいっても、職場の人なので、そこそこの仲にはなりますが(なので、別に乗る人が悪いわけではない)、「車の中が汚された感覚」になるのを感じていました。

お付き合いの場面でも同じ


これが、もっと距離が近くなると、恋愛関係などにも、同じことがいえます。

「そもそも好きじゃなければ、部屋の中に入れたくない」という感覚がいつもあります。一緒に電車やバスに乗ってるとかなら、ぜんぜん平気です。自分がふだん管轄している場所ではないからです。

まぁ、よっぽど用事があるとか、好きじゃなければ部屋にいることもないでしょうが、「相手の人と一緒の空間にいることができるかどうか」というのは、恋愛でなくても、他の対人関係でも、私にとってはかなり重要な部分です。

「自分の世界に入れてあげる」の最上級とは


「自分の世界に入れてあげる」の、私にとっての最上級は「自分の布団に入れてあげる」が、最上級の相手の受け入れ ということになります。

ダニアレルギーなのもあり、寝具の手入れにはメチャクチャ気を遣っています。そこに入れるのが、どんなに名誉なことか、刮目しなさい! …くらいに、思っています(`・ω・´)冗談じゃなく、マジです!

私が今まで「本当に好き!💖 布団に入れてあげたい!」と感じたのは、犬🐕でした。😋

そこまで思いましたが、実際は犬は犬用の寝床で寝ていましたし、人間と一緒に寝るのは、犬のしつけによくないようですし、布団にオシッコされて汚れてもクリーニングが大変だし……ということで、実現には至りませんでした😅

「相手の布団で寝ること」というのが、なんらこだわりのない行為である人も、いるでしょう。そういう人が悪いわけではないですが、私の布団を雑に扱うのは許しません!(#^ω^)布団を汚すのも、もってのほかです!! ……まぁ、そういう人は、最初から私の中で、「布団に触れさせない人リスト」入りしているでしょう…。

一緒の空間を共有するということ自体が、後者にとってはエネルギーを使うことでもあります。一緒にいて(気を遣って)疲れてしまう人とはいられないだろうし、本当ネコ🐈の性質で、単独行動のタイプなんだろうなと、感じます。

こういうところを、(周りと同じでないために)社会不適合な部分だと感じ、劣等感になっていましたが、好きなものは好き・嫌いなものは嫌い でいいんだ……と、気づきました。

それに、私の「好き」を優先してくれない人が、私を大切にしてくれる人なわけないんですよね。(*-ω-)ウンウン

私の「一緒の空間へのこだわり」を理解しない人・尊重しない人とは、付き合わなくていい! と、結論付けています。😋

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個人のプライバシーもありますが、まぁ世の中ではよくある話だと思いますので、ちょっと思い出したのをいいことに、父のことを書いてみようと思います。

父子家庭の始まり


私の両親はすでに離婚しています。父と母が別居を始めたのは私が小学校低学年のときで、私の小・中時代は父が主に生活の面倒を見てくれました。学校関係のものは父に買ってもらって、食事も父が下手ながら作ってくれました。食材の扱いはひどいものでしたが、それでも給食がありましたし、栄養状態は普通だったと思います。

父は母と別居し始めてから、近所のおばさんと親しくなるようになりました。父よりも10くらい年上の女性です。「ああ、この人が家に入ってくるのやだなあ、私がリラックスできない」と感じていました。彼女が家に来るときは、単に「お茶を飲みにくる」というだけでしたが、いろいろ父とテレビを見ながらしゃべっていた記憶があります。

父が彼女と一緒にどこかに出かけていたとかの記憶はありません。あ、出かけていたかもしれませんが、父が家を空けるときは「出張」と言っていましたので、たぶん実際に出張だったのだと思います。出張ということにして彼女と出かけていたかもしれませんが、私にとっては家の中が平和で静かになることのほうが嬉しかったです。

私から見た彼女は「よく家に入ってくる近所のおばさん」と、それ以上でもそれ以下でもない感じでした。彼女がどういう意図で家に出入りするようになったのか、今でもよくわかりません。父を信頼しているということはわかりましたが、「当時の私が子供で、いろいろかわいそうで面倒を見てやらないといけないと思ったから」とか、そういう意図は感じませんでした。

反対に、「この人(私の父)と親しくしていればお金になるから」というようなものも感じませんでした。(子供だったので気づかなかっただけかもしれませんが) 父が不在の時に、タイミングよく(来るときは毎回違う時間です)夕食時にやってきた彼女が、私の分のご飯も作ってくれたことは覚えています。

かといって、母のような人でもなかったです。私は彼女を名前で呼んでいましたし、彼女も私を名前で呼び、父のことも名前で呼ぶ。他人としての隔たりは、同じ家の中にいてもちゃんとある。そういう関係でした。

父が彼女をどう思っているのか聞いたことはありません。母と離婚したあと、彼女と籍を入れた様子もないですね。私が知らないところで多少の金銭のやり取りくらいはあったかもしれません。ですが、基本的には彼女は彼女自身の収入で暮らしている様子でした。

「他人としての隔たりがちゃんとあった」と感じるのは、彼女が家に泊まっていくことはなかったからだと思います。深夜までいることはありましたが、お風呂に入って翌朝まで寝ていく、ということはありませんでした。同居している娘の私に気を使ったのかもしれません。私も当時は子供でしたからね。

今、私が父と彼女の関係を「別にどうでもいいや」と感じているのは、突き放しているからでも嫌悪しているからでもなく、「一人の個人として、それぞれがそうしたいと思った選択をしている」ということを知っているからだと思います。

二人の関係はどうでもいいんです


父は母と離婚したあと、彼女と籍は入れていないようですが、日々、顔を合わせる仲です。一種の通い婚というか。その様子を見ていると、「もしかしたら、かつては寝たのかな」ということも少し頭によぎります。でも、別に寝ててもいいや、と思っています。少し前は「お父さんには、お母さんだけを愛してほしかった」という気持ちもありましたが、暴力が原因で別れていますから、そんな人に愛されても母は迷惑なだけでしょう。

現在も父と彼女が一緒に暮らすということはなく、彼女が父の家にときどき来る、という状態です。金銭的なやりとりがあったとしても、それは私には関係ないことです。父が自分でしている判断ですし、娘の私に迷惑が掛かっているような状況は今のところ起きていないので、まったく問題ないことだと、私は思っています。

父もその女性も本当いい年齢です。見る人が見れば「老いらくの恋」的なものかもしれませんが、後期高齢者の惚れた腫れたなんて、小さいことです。

家族に対して、「あぁ、こういうふうにドライになれるんだなぁ」と感じます。父子家庭だったことはときどき書いていましたが、親がどういう状態だったかを書いたことって、なかったですね。

人間の成長には育ち(生育環境)が大きく影響していると思いますが、血縁上の両親が同じ家に住んで、その両親の子を育てている・・・というモデルケースから外れたとしても、ネットやPCを体の一部のように使えるくらいにはなるという証左です。

私はこの女性のことをあまり好きではないですし、家に来ていたときは「めんどくせーのがまたきた」くらいに思っていたのですが、心屋さんの考えでとらえると、「この人みたいになってもいい」というのが許可なのかな、と思います。

心屋さんの考えは「お母さん」に対してどう思っているかというのが主軸になっていますが、父子家庭育ちということもあり、「心屋さんの考えを私の経験に当てはめるとどうなるんだろう?」というのがちょっとひっかかってしまうところです。

実の母でないとしたら、成育途中で関わってきた母的な役割の人、となるでしょうが、思いついたのは父の愛人(?)の、この女性でした。でも母親のように面倒を見てもらった覚えもないんですよねぇ・・。多少ご飯を作ってもらったくらいですし。学校のことで相談したことなんて、一度もなかったですよ。

私は彼女に対して、あまり怨念めいた思いも昇華されない思いもないですので、もしかしたら別のところに何かがあるのかもしれません。学校の先生とかですね。

ふっと思いついたので書いてみました。



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お風呂あがりにご飯が炊けているのがシアワセの中では、ご飯そのものについて書いていなかったので、今回はご飯へのこだわりについて書きたいと思います。(^◇^)

ご飯は固めに炊いてあるほうが好き


個人的な好みでいうと、ご飯は固めに炊いているほうが好きです。ご飯の粒が型崩れせずに残っていて、噛むと粒がつぶれる感触がしっかりわかるくらいの固さです。

なので、炊飯器時にはかなり水を少なめにして炊いています。炊飯器の内側に水を入れる目盛りがついていますが、お米の量から適正水量の1合分くらいを減らして炊きます。お米を3合炊くなら水の量は2合分、という感じです。

この水の量だとかなり固めに炊き上がります。炊きあがったあと、粒がしっかり残っている感じなので、粘り気は少なくなります。おにぎりを作るときは、キッチリまとめないとお米の粒同士がくっつかないことがよくあります。

少なめの水量で炊いているので、おにぎりはコンビニのおにぎりとは違って、かなりギューっと押しつぶして握っているほうだと思います(笑) ふんわりした握り方のおにぎりが好きな人は「なんか、固い!」と思うことでしょうw

でも、そのくらいで私はちょうどいいんですよね。チャーハン作るときとか、お米はパラッとしていたほうがいい仕上がりになります。オムライス作るときなども、具とケチャップがベタベタしないで混ざりますし、片付けもラクです。

柔らかめが好きな人とは炊飯器を別にするしかないと思う


これは完全に私の好みなので、ご飯は柔らかめに炊いてあるほうが好き、という人とは炊飯器を別にするしかないなーと思います。

子供の頃、祖父や祖母に合わせてご飯が柔らかめに炊いてありましたが、それを食べるのがすごい嫌でした。「もっと固めに炊いてあるほうがいいー!」と思っていましたね。子供の頃からなので、今現在好きな固さで炊いたご飯を食べられるということは、子供の頃からの夢がかなっているといえますね。

好みは人それぞれだと思いますが、どうしても優先したい!と思う箇所は個人個人でオーダーメイドしていくことが可能なほうが、健全な気がします。子供の頃は問答無用で祖父たちに合わせたものを食べていたわけですが、大人になった現在、選ぶ自由がないのって不健全ですよね。

お米なんて炊飯器があって、研いで水を入れてスイッチを入れれば炊き上がるのですから、それくらい自分でしようよと思います。お米が炊けるくらいに大人になれて、本当に良かった・・・。(オーガニック前者の方から見れば安いヅラなのでしょうけど・・・自分が食べたいものを食べたいように食べられるって、ものすごい自立の証だと思います)

基準はやっぱり「パラパラするくらい」というところですね。噛み心地がしっかりしているくらいのほうが好きです。














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